日記

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2012年1月22日(日) TBS報道特集より

  報道特集 2012年1月21日(土) TBS
      JAPAN NEWS NETWORK
書き起こし ・・・ 石田良子

 文中の凡例
  ()・・・ 画面状況説明
  『』・・・ ナレーター(女性)
  《画面に出たテロップ》 

 (スタジオの中。カメラの前に立つ男性。金平茂紀)
 「こんばんは、報道特集です。大寒の今日は東京の方はめっきり冷え込んでいますけれども、テキサスの方は暑くなっているようです。ダルビッシュ投手のメジャーデビュー、北海道出身の私としては、活躍を祈るばかりですけれども、ちょっぴり寂しい気もいたします。それでは今日のニュースです」
 (スタジオ、別のコーナーに作られた机に向かう男女。日下部正樹と竹内香苗)
 日下部「はい、それではお伝えします」
 {日米のニュースの報道。省きます}

 (スタジオの画面に、《見えない聞こえない盲ろう者の支えの実態》の文字。バックに、大学合格発表の掲示をみて、手で大きな○を作って合図する森敦史くんと雷坂先生の映像)
 日下部「視覚と聴覚に障害があり、見ることも聞くこともできない人たちを、盲ろう者と呼びます。報道特集では去年、大学に合格した盲ろう者の若者を紹介しましたけれども、彼はいま、学生生活が起動にのる一方で、支援体制を含み、将来への不安も隠せません。今回私達は、アメリカの盲ろう者を取材しました。そこからは日本が取り組むべき課題が見えてきました」
 
 (桜の咲く幼稚園。入園式に集まる人たち《盲ろうで生まれた少女》)
 『去年の春、都内の幼稚園に3歳の女の子が入園した。田中凛ちゃん』
 (幼稚園の教室のなか。円く並んだ小さな椅子に進入園児たちが座っている。その前を一人だけ立ち上がって歩き回る凛ちゃん)
 『入園式で他の子供たちは座って話を聞いているが、凛ちゃんはその場にじっとしていることができない。凛ちゃんは目と耳が不自由だ』
 (周りを取り囲んで座っている父兄の中から、m一人のお母さんが凛ちゃんを追いかけ、抱っこして席に連れ戻す)
 「視覚と聴覚。その両方に障害のある人のことを盲ろう者と呼ぶ」
 (園庭で話す母、麻友さん)
 麻友「特にお話をしているときは、意味が分からないので、動きたいですよね。座っててといわれても、何で座っているのかが分からないので」
 『式の後、保育師が絵本を読み聞かせたが、凛ちゃんにはこの状況が分からない』
 (保育師の周りに座って絵本を見る子供たち。凛ちゃんだけは部屋のあちこちを歩き回っている)
 『ある程度の視力と聴力はあるものの、まだ幼く、正確な調査はできていないという』
 (園庭を友達と並んで歩く凛ちゃん)
 『それから8ヶ月後。4歳になった凛ちゃんは、元気に幼稚園に通っていた。身体も一回り大きくなった』
 『この幼稚園には保育を手伝うボランティアがいる。凛ちゃんには必ず一人ボランティアが付き添う』
 (ボランティアさんと、ホッピングや竹馬にのり、ニコニコ顔の凛ちゃん。次は、お弁当を食べる凛ちゃん。左手を添えながら、ホークで上手く食べています)
 『お弁当も一人で食べられる』
 (上手に食べられすぎて、次から次へと口にほおばる凛ちゃん)
 保育師「凛ちゃん、ごっくんしてから。入れすぎだって!もぐもぐごっくんしてからよ。お願いします」
 凛「はい」
 『最初は仲間に入れなかった読み聞かせの輪にも凛ちゃんはいた。声が一番よく聞こえる先生の膝の上が凛ちゃんの指定席。ここでページをめくるのが凛ちゃんの役目だ。自分なりに幼稚園で居場所を見出しているようだ』
 (先生の膝で、絵本が顔にくっつきそう。先生の声は凛ちゃんの耳元)
 『他の子供たちも、ごく自然に凛ちゃんと接している』
 桑原泉園長(若い女性園長)「他の子供たちは、自分たちと違うとは思っていないというか、凛ちゃんは凛ちゃんとして受け入れているので」
 『言葉もたくさん覚えた凛ちゃん。両親はこの先も言葉で意思疎通ができればと願っているが、今後障害が進行する可能性もあり、不安は付きまとっているという』
 (迎えに来たお母さんの自転車の後ろに乗って帰っていく凛ちゃん)

 (画面変わって、大学の校門。ルーテル学院大学。賛美歌の合唱が聞こえている)
 『去年大学生になった盲ろう者がいる。森敦史さん(19)。盲ろう者には視覚と聴覚が少し機能している人もいれば、全く見えず聞こえない、全盲ろうと言う人もいる』
 (通訳・介助員に手を引かれて、他の新入生と一緒に入学式場に入り、席に着く森くん。「森敦史」と呼ぶ声。通訳者に知らされて、立ち上がり礼をする)
 『敦史さんは全国的にも極めてまれな生まれながらの全盲ろうだ』

 (突然1995年の映像。以前にも出たもの)
 『これは、敦史さんが3歳の頃の映像だ。それまで片時も親から離れなかった敦史さん。保育園の園長があえて一人にしたのだ。3歳の男の子はその場から1歩も動かない。映像に映っているだけでも29分間も立ち尽くしていた』
 森貞子(母)「この子は教えないと足も踏み出せないんですよ。見えない聞こえないですから底から動かないと言うのが一番の安全の策なんだってことを、彼は知恵として持ってるんです。声も出さない。おいでとも言わない。一日でも二日でも、多分あの子は立って待ってるんですよね」
 『この頃の敦史さんは、表情の変化もほとんど見られない。感情表現の仕方も分からないのだ。情緒のはぐくみ、手話の習得、時間や距離といった物事の概念。敦史さんはそんな途方もない課題に向き合いながら、家族や指導者の支えのもと、一つ一つ克服し、人生を切り開いてきた。こうした努力の末』
 (この間の映像は、前回も出た画面の繰り返しなので省きます)
 敦史(指文字で)「ようやく大学生になれたかなと思います」

 『敦史さんは今大学で福祉の勉強をしています』 《ルーテル学院大学・東京三鷹市》
 (大学の教室。大勢の生徒に混じって席に着いている森くん。通訳・介助員が二人並んで座っている。隣の通訳者が手話と指文字で通訳。その隣でもう一人はパソコンに何か打ち込んでいる)
 『手の中で手話を行う、盲ろう者独特の触手話という方法で通訳者が授業を同時通訳する。長時間のため、90分の授業ごとに通訳者が二人。1日授業が3駒あると、合計6人の通訳者が必要だ。休憩を取りながら通訳ができるように、二人体制をとっているが、ノートを取れない敦史さんのためにと、空いた通訳者が自発的に授業の内容をぱっそ紺で記録している』
 通訳・介助者、森下摩利「普通の健常の学生に比べて圧倒的にやっぱり不利な条件ですので、通訳・介助者ができることは、あらゆることはやっていかないと」
 (休み時間、介助者と食堂の自販機で飲み物を買う森くん))
 『通訳・介助者の人件費はすべて大学側が負担している。自治体による派遣制度はあるが、人手と予算がかかりすぎるという理由から、学校などでは利用できないのだ。全校生徒が500人に満たない大学に取って、この支出は軽くない』
 社会福祉学科、金子和夫学科長「金銭的にもかなりの負担にもなってくるわけですね。まあ、そうしたものを本学だけで果たしてその、やっていけるのかどうか。まあ、実際にはやるという覚悟を決めて受け入れたわけですから、責任としてやらないといけないと思っていますけれども」

 『敦史さんも大学生活を維持するために、自発的に行動していた。大学は授業のための通訳・介助者はつけてくれるが、通学などは個人の責任だ。そこで敦史さんは学生のボラんティアを集めるため、休日を利用して、近隣の大学を訪問していたのだ』
 (若い学生たちと、集まっている森くん)
 『そのため、サークルを立ち上げていたのだ。その名は《あっ君クラブ》』
 (大学内に張り出されたあっ君クラブの説明掲示)
 『盲ろう者の森敦史さんが介助者を求めて自ら作ったサークル、あっ君クラブ。岡田道武さん(18)は、そのあっ君クラブの会員だ。敦史さんとは違う大学に通っているが、週1回、敦さんの通学をサポートしている』
 (横断歩道で信号待ちをしている男子学生)
 岡田「ああやばい、遅刻しそうになったことが何回かありますよ。お腹痛くなって。それで授業遅刻して出られなくて、単位が取れないとか成ったら大変だし、本当に。おおやベーやベー」
 (走り出す岡田くん。歩道脇に森くんが立って待っている)
 『この日は、約束の時間ぎりぎりに到着。敦史さんはすでに自宅の外で待っていた。学校までは10分の道のりだが、歩道が狭い上に交通量が多く、誘導には注意を払う。敦史くんの登下校はこうして学生たちがローテーションを組みサポートしている』
 (歩道には自転車も走っているし、歩いている人も多い。二人はやっと大学内に入る。底には通訳・介助者が二人待ち受けている)
 『学校まで無事に送り届けると、後は通訳者にバトンタッチ』
 岡田「できることあるんだから、やってあげればいいんじゃないかっていう、それだけですね。では行ってきます」
 (インタビューに答え終わって、去っていく岡田くん。
 『岡田さんはこの後自分の大学に登校した・敦史さんはいま、仲間や学校など、周囲の善意で大学生活を送れている。今後もこのまま続けられるかどうか、一抹の不安もある』
 (雨のなかを、女子学生の手引きで下校していく森くん)

 (画面は古い映像に変わる。女性が隣に立つ女性の顔に手を押し付けるようにしている。顔に手をつけられたまま、英語で話す。話の内容は字幕スーパー)《提供:American Foundation for the Blind》
 「彼女は口を触ってその振動から相手の言葉を理解しています」
 『ヘレン・ケラー。幼いころに視覚と聴覚を失いながらも、その半生を福祉活動に捧げ、世界で最もよく知られている盲ろう者です』
 (ヘレン・ケラーの本や写真)

 (画面はアメリカの市街。《アメリカ》)
 『ヘレン・ケラーの母国、アメリカの盲ろう者たちは今どのような環境におかれているのか』
 (郊外の風景に変わる。《ニューヨーク州ロチェスター市、2011年10月》)
 『ニューヨーク州北部、ロチェスター市に国立ろう工科大学がある。全米から聴覚障害の学生たちが入学しているが、盲ろうの学生も受け入れ、現在およそ30人が在籍している』 
 (大学内。学生たち。一人の黒人の女子大生が食堂に入ってくる。二人の女性と一緒に席に着く)
 ザイーシャ「私は耳が聞こえないの。今朝はルームメイトに起こしてもらったわ。危ないあぶない、ぎりぎりだったのよ」
 『ザイーシャさん18歳。弱視難聴の盲ろう者だ』
 (靴を脱いで足先を見せるザイーシャさん。足先は指が全部癒着してしまっている。次に、かけていたサングラスをはずす。顔の上半分に奇形がある。目もおかしい。右目には黒い瞳がほとんどない。耳には補聴器をはめている)
 『遺伝子の病気で、生まれつき指や顔面の奇形。また、視覚聴覚、のどなど身体の様々なところに障害がある』
 (ザイーシャさんの昔の写真。衣装をつけ、トウシューズを履いてバレーを踊っている)
 『ザイーシャさんは実の親を知らない。両親は育児を放棄し、彼女は4歳まで病院ですごした。その後、病院の職員だった今の両親の養子になり、育てられたという』
 (養父母と男の子と一緒に幸せそうなザイーシャさんの写真)
 (インタビューに答えるザイーシャさん)
 ザイーシャ「子供のころは自分を受け入れることができませんでした。こんな風でなければ良かったのにと思いました。でも、両親のおかげでありのままの自分を受け入れられるようになったんです」
 
 (大学の授業の様子。8人ほどの生徒が机を並べている。前で教授が音声と同時に手話での講義をしている。パソコンを置いている生徒もいる)
 『ザイーシャさんは自分の体験から、将来子供たちの心のケアに携わりたいと思う。その勉強のために、サポート体制の整ったこの大学を選んだ。細かいニュアンスまで直接正確に伝えるため、この大学の教員たちは全員手話ができる。学生が希望すれば、同じ敷地内にあるロチェスター工科大学の授業も受講できる。この授業にも手話ついう役者が必ず着き、盲ろう者がいれば1対1での通訳も行う。通訳者は常時120人以上いるという』
 (ロチェスター大学の大きな教室。女性の教授の講義。隣で手話通訳者が全体通訳。その横で、@パソコンに講義を入力している女性。各自のパソコンを見ている生徒もいる)
 『授業を速記する、キャプショナーと呼ばれる専任スタッフも50人いる。手話と同時に、文字でもパソコンの画面で確認でき、データはそのまま保存されるので、学生はノートを取る必要がない』
 (職員室内)
 『こうした支援にかかる多額な費用は、国からの助成を入れながら、大学独自の予算でまかなっている』
 (インタビューに答える男性。《国立工科大学デカーロ名誉教授》)
 デカーロ「盲ろうの学生たちはどんな学科を専攻していても、我々はその分野で成功するための必要なサービスを全力で提供します。彼らの前に壁を作りたくないのです。アメリカの大学では障害を理由に入学を拒否される人は一人もいません。障害は審査の対象にはならないのです」
 『この大学では学力の基準を満たしていれば盲ろう者もすべて受け入れるという』
 (大学構内の廊下で話し合うろうの学生たち)
 『そこには法律という後ろ盾がある。1990年に制定された、アメリカ障害者法。この法律には、教育機関や公共施設の利用、企業の雇用などあらゆる分野で障害を理由に差別してはならないと定めている。例えば学校や裁判所、病院などの公的な施設やデパート、ホテルなどでも障害者が通訳を必要とした場合、施設側は通訳者を手配するなどの義務を負う。電話会社も音声を手話通訳するサービスを提供しなければならない』
 (この間に、各施設内での通訳の様子。電話での話では、画面に手話通訳する人が映る)
 『法律で障害者への情報を保障しているアメリカだが、この法律も決して万能ではなく、法で定めた以外の場所では何もしなくて良いという負の側面がある』
 (街を白杖を使って歩く男性。《全盲ろう、ビクターさん》)
 『ビクターさんは全盲ろうだ。アメリカでは行政に夜通訳・介助者の派遣が整備されていない。そのため、自力で外出できるように、トレーナーの指導を受けて訓練を続けている』
 (ビクターさんに触手話ではなっしている男性のトレーナー。説明を聞いたビクターさん。横断歩道の前で、何かカードを出して立っている。そばに近づいた女性がビクターさんの肩をたたく。女性に誘導されて横断歩道を渡る)
 『交差点では介助を求めるメッセージカードをかざして周囲に協力を呼びかける』
 (インタビューに指文字と手話で答えるビクターさん)
 質問「迷子になったことは?」
 ビクター「ないです」
 トレーナー、ボークイン「健常者でも交通事故にあいますし、街では必ずリスクは存在します。そのリスクを受け入れるか否かは人それぞれが判断するべきことです」
 『盲ろう者の単独歩行は、ニューヨークのような人の多い場所だからこそかろうじて可能であり、他に選択肢がないのは問題だという指摘もある。これもまた、アメリカの現実だ』
 (一人歩行の訓練を続けるビクターさん)

 『アメリカでは盲ろう者たちの心の支えになっている施設がある。ニューヨークの中心部から車で1時間の所にあるヘレンケラーナショナルセンター。ヘレンケラーが建設を強く望んだ施設で彼女が亡くなった翌年の1969年に開設された』
 (ニューヨークの市街を抜けて車で走る風景。緑に囲まれた施設に入っていくと、ヘレンケラーナショナルセンターの文字。文字の横には、銅版に浮き彫りになったヘレンケラー像。建物に入ると、大きなヘレンケラーの姿を描いた絵が飾ってある)
 『この施設は盲ろう者の自立を目指したリハビリ施設で、国と州が運営し、22歳以上の盲ろう者なら無料で利用できる。年間およそ100人の盲ろう者が入所し、宿泊しながら数ヶ月から1年程度の期間集中的に訓練を受けている』
 (訓練の様子。点字タイプライターを打つ盲ろう者。廊下を白杖を使って歩く盲ろう者、職員がわざと行く手に椅子を置いてよける練習)
 『寮生活を送りながらセンターで訓練を受ける全盲ろうのカルロスさん33歳。カルロスさんはアメリカ軍の元海兵隊員で、その後ホテルの料理人をしていたという。ところが5年前に、脳や脊髄に腫瘍ができる病気を発症。視力と聴力を突然奪われ、病気の影響で声も出せなくなったという』
 (施設内の部屋で動くカルロスさん。壁を伝い、探した点字書類を読む。セーターを着込み、触読式目覚まし時計をセットしている)
 カルロス(指文字と手話)「夢には色がつき、人の話し声も聞こえます。彼らの顔も見えます。気が動転して突然目を覚ますことがあります」
 『カルロスさんのように、視力と聴力を同時に失ったケースは過酷だ。手話や点字も分からず、外部からの情報が完全に遮断されるからだ』
 カルロス「まさに悪夢でした。私は人と関わることが好きなので、誰とも会話できないことは死ぬほどつらいことでした」
 『家族を持たないカルロスさんは、長い間誰とも話さない孤独な日々を送ってきたという。そして、このセンターに入所し、初めて手話を覚え、人と会話ができるようになった。寮の台所では自炊する訓練も毎日続けている』
 カルロス「今は料理も自分でできます。私は料理が大好きです。ヘレンケラーセンターは私の人生にセカンドチャンスをくれました。将来に新たな希望を与えてくれました」
 (カルロスさんは頭には毛がありません。剃っているだけではなく、抜け落ちたのではないかと思います。顔の皮膚が引きつれたようになり、表情が作れない。音声が出せないのも口が動かせないからだと思います。目も多分瞬きができないのではないかと思います。身体は動きます。手もきれいな手で、器用に使えます)

 (壁に飾ったヘレンケラーとサリバン先生の写真。その前で椅子に座った初老の男性。《ヘレンケラーナショナルセンター、マクナリティ所長》)
 『盲ろう者の可能性を信じること。それが支援の鍵だとセンターの所長は言います』
 所長「センターで適切な適切な訓練と必要なサポートを提供すれば、彼らは高い目標を達成して人生を切り開いていけることを証明してきました。盲ろう者の訓練にはお金がかかります。長い時間もかかります。それでもやる価値が有るのかと問われたら、答えはイエスです」

 (突然、大勢の人の集まっている部屋。前でマイクに向かって話す福島智さん。音声は英語で、アルファベット指文字を使ってみんなに自分の名前を教えています。聞いている人たちはにこにこしています。《東京大学先端科学技術研究センター、福島智》)
 福島「マイ ネーム イズ サトシ フクシマ」 
 『アメリカの聴衆を前に講演する福島智さん。福島さんは日本で始めて大学に進学した盲ろう者で、現在は東京大学の教授を務めている。アメリカで障害者の環境などに着いて研究を続けていた福島さんに、ヘレンケラーセンターの印象を聞いた』
 福島「盲ろう者は生きる意味を見出しかねている、ネガティブになっている人が多いので周りの人とのかかわりこそが、自分自身の存在を輝かせる。生きているという実感を高める。そういう手ごたえを深めるものだということ。こういう、ヘレンケラーセンターにいると感じます」

 (突然日本に戻って、夜、街を歩く森くん。居酒屋に入ってビールを飲み始めました)
 『大学に進学した盲ろう者の森敦史さん。去年の夏に二十歳になり、もうお酒も飲める。この日訪れた店には他にも障害者のお客がいた。みな敦史さんに興味しんしんだ。こうして敦史さんは学校の外でも交友関係を広げている』
 (居酒屋に居合わせたろうの客に手話で話す森くん。聞き取りは触手話。質問しに近づいた男性に答える森くん)
 森「福祉関係の仕事をしたいと思っています。例えば盲ろう者を支援することとか・・・」
 『ヘレンケラーセンターのような施設が、日本にも作られれば、そこで働いて見たいと敦史さんは夢を語っていた』
 (一緒に来た友達は女性二人。ビールの後にもサワーか何か飲んで、完全に酔ってしまっている森くん。ゆらゆら揺れながら訳もなくにやにやしています。隣の女性が、完全に酔っているはといっています)

 (突然、スタジオに戻ります)
 金平「あのね、このVTRの中にあったアメリカのロチェスター国立工科大学とかね、ヘレンケラーセンターのありようを見ているとね、驚くというかね、共に生きるって言うんですか。有利な立場にいるものが、ハンディのある者を救ってやるとかそういうんじゃなくて、共に生きてくって言うような、すごく強い思想みたいなもの感じてね、それが根付いてるなあと思ったのと、後、周囲の人たちの、なんていうんですか、その善意とかね眼差しみたいなものを、例えばこの触手話とかね、ああいうの見ると本当に素直に心動かされましたよね」
 竹内「共に生きるというアメリカの考えで言いますと、私はかつてアメリカの公立の中学校に通っていたんですけれども、その学校では授業でアルファベットの手話を教えていたんですね。ちょっとやってみますと、ABCDEFGと(指文字を出す)。これを知っていると最低限のコミュニケーションは何かあったときに取れるなと思ったんですが、そういったところに、共に生きるということが反映されているんじゃないかなと思います」
 日下部「人と人との結びつき。まあ、精神面も非常に大切ですけれども、やっぱりこれ、車の両輪と一緒で、精神面にくわえて物理的な支援、これも非常に大切だと思うんですね。例えば2本の場合、公的なですね盲ろう者に対するリハビリ施設と言うのは東京に一箇所、しかも非常に規模の小さいものしかないそうです。ですからですね、このアメリカにあったヘレンケラーセンターのようにね、自分は決して一人じゃないんだと、この実感できるような施設。これが必要だというのはこれ、関係者の非常に強い希望であって。あともう一つ見てて思ったのはね、日本人はやはりどうしても他人に迷惑を掛けたくないという意識が強すぎて。VTRでアメリカで盲ろう者の人がカードを見せて支援を求めてる。これなんかも日本人の意識をちょっと変えればね、日本人だってやっぱり手貸すと思うんですよね」
 竹内「以上特集でした」 
 

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