日記

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2010年11月3日(水) 石田良子さんからいただいたデータ1

2010年11月1日
   NHK 解説放送・副音声
  福祉ネットワーク (第1回・全2回) 

 *()内は、画面の説明
 *「」の前に名前がないのは、ナレーションです。ナレーターは女性です。
 *画面には、字幕が出ています。

 (ヘレン・ケラーの大学卒業時の写真)
 「見えない聞こえない 盲ろうという障害とともに生きたヘレン・デラー」
 (ヘレンとアン・サリバンの写真。サリバンの顔に手で触れているヘレン)
 「家庭教師サリバンと出会い その能力を磨き続けたヘレン・ケラーは 世界の障害者福祉や女性の地位向上に大きく貢献しました」
 (黒人の子供を抱く熟年期のヘレン)

 (盲学校の敷地内を白杖を使って歩く森敦史。紺の半そでTシャツで、布のかばんを提げています。眼鏡をかけ、耳には補聴器。髪の毛は鶏のとさかのように立っています。3mほど後ろから、雷坂先生が下駄履きでついて来ています)
 「ヘレン・ケラーが生まれて、今年で130年。同じ障害に向き合いながら、日々格闘する人々がいます」

 (突然、アメリカの盲ろう女児が教室で先生に指導を受けている場面)
 「その現在のヘレン・ケラーたちを社会はどう支えていくのか」
 (教室で指文字で話し合う敦史と雷坂先生)
 「シリーズ、盲ろう教育。第1回は大学進学を目指す、ある盲ろうの生徒を通して、日本の盲ろう教育の課題を見つめます」
 (盲学校運動場で先生に付き添われて全力疾走する敦史)

 タイトル
 シリーズ 盲ろう教育 第1回
   ぼくは学び続けたい

 (教室内。隣に座った女子生徒の指文字を触読する敦史)
 (NHKのスタジオ。町永俊男)
 町永「福祉ネットワークです。今日と明日の2回にわたって、この時間では盲ろうという障害を取り上げます。とりわけ、教育という側面から、その課題は何か。何ができるのかを考えていこうと思います。まず盲ろうという障害、一口で盲ろうと言いますが、その障害や程度によってさまざまなんですね。
 (盲ろう障害を4つの種類に分けたパネルを映し出す)
 見えない、聞こえないと言う場合は全盲ろうということになりますが、聞こえにくかったり見えにくかったりすると、それぞれ状態が違ってきまして、見えなくて聞こえにくい場合は、盲難聴、同じようにこういう形で、弱視難聴や弱視ろうと言うことになりますが、情報から遮断される、あるいは遠ざかってしまうということで、教育の過程では、物事の概念を把握すると言うのは、大変に困難であります。こういう障害でありながら、日本の法律では、盲ろうという規定がないんですね。現在国連のですね、障害者の権利条約、日本も署名していまして、今批准に向けて話し合いが始まっていますけれども、その中で、すべての障害のあり方を根本的に考えよう、盲ろうというものも、どう位置づけるかということが、話し合われております。さあ、とりわけ、教育の課題は何なのか。これから、ある19歳の盲ろうの青年、盲学校の高等部で学んでいます。その日常の暮らしも含めて、ごらんいただきましょう」。

 (盲学校校門付近)
 「東京文京区にある筑波大付属視覚特別支援学校です」。
 (白杖を持たずに、一人で寄宿舎から歩いてくる敦史)
 「学校の寄宿舎に住む高等部3年の森敦史くん」
 (校舎に入って階段を上がり、廊下を歩いていく。足につけた鈴が鳴っている)
 「生まれたときから目と耳の両方に障害がある、盲ろう者です。校内では、いつも足に鈴をつけています。他の生徒たちに自分の存在を知らせ、ぶつからないようにするためです。この学校の高等部で、盲ろうの生徒は敦史くん一人です。
 (高等部教室1と書いた部屋に入っていく) (席に座った敦史のところに、弱視の男子生徒が近づき、指文字で話す)
 男子生徒「おはよう、髪切った?」
 敦史「うん、今日は取材がある」
 (敦史の返事は指文字だが、弱視の男子生徒は、指に顔を押し付けるようにして読み取るのでとてもゆっくり。「今日は取材がある」という部分は、音声や画面は出していません)
 「見えない聞こえない敦史君のコミュニケーション方法は、指で一文字ずつ50音を表現する指文字です」
 (全盲の男の先生が入ってくる)
 先生「おはよう」
 「朝のホームルーム、敦史くんの隣には、生徒が座ります」
 (女子生徒が座って指文字通訳)
 先生「先週の金曜日に保護者会があって、みんなの・・・」
 「このクラスの生徒は、敦史くん以外音声で会話ができます。しかし敦史くんは聞こえません。そこで、敦史くんをサポートするため、皆で指文字を特別に習い交代で通訳をしています。目と耳からの情報が受け取れない敦史くんは、学ぶスピードも違います。今年の授業では、体育以外は個別授業」
 (敦史は別の教室に移動。若い男の先生が入ってくる。先生はノートパソコンを開き、敦史は・センスを前においています。パソコン画面には、敦史が打ち込んだ言葉も表示されています)
 「この現代社会の授業では、今年7月に行われた参議院選挙について学びます。先生とのやりとりは、パソコンを使って対話形式で行われます。先生の打った文字は点字に変換され、敦史くんに届きます。敦史くんが点字で質問や意見を打つと、自動的に訳され、画面上で確認できます。敦史くんの学習には、他の生徒に比べて、より多くの時間がかかりますが、一歩一歩着実に勉強を積み重ねてきました」

 (別の教室。雷坂先生と向かい合って話している。敦史の指文字は、雷坂先生が音声で読み取っている。分からないと聞きなおし、敦史が指文字を繰り返します)
 敦史「勉強をしていること、勉強できていること、問題を解いたり、計算したり、観察して何かを言ったり、意見を言ったりできたのは、幸せかなと思います」。

 (小雨のなか、お母さんと相合傘で寄宿舎から出てくる敦史)
 「敦史くんは週末、学校の寮から、近くに住むお母さんのもとへ帰ります」。
 (家に入って並んで座り、楽しそうに話し合う母子)
 「母親の貞子さんです。今では言葉を理解し、指文字や手話でコミュニケーションができるようになった敦史くん。しかし、ここまでくるには母と子の長い試行錯誤の日々がありました」
 (赤ちゃんの敦史の写真)
 「敦史くんは1991年、岐阜で生まれました。視覚に障害があることが分かったのが、生後4ヶ月。その後、聴覚にも障害があることが分かりました」
 (1歳児の敦史を挟んだご両親の写真。お父さんは、画面からはずされています)
 「病院や訓練施設をいくつも訪ねました。しかし、どこも、見えない聞こえない敦史くんに戸惑い、安心して相談できるところは見つかりませんでした」
 (座敷で話すお母さん)
 貞子「それまで散々、病院も振り回され、訓練所にも振り回され、日本ではというか、もうこの国では誰も救ってくれないんだくらいまで思ってたかも知れません。親子二人というか、まあ家族で暮らしていくしかないんだというくらいまで、思いつめていたかもしれませんね。何もないんですもん、だって」。
 (夕焼けに染まる郊外の風景)
 「言葉を理解しないまま、2歳8ヶ月を迎えた敦史くん。この時、転機が訪れます」。
 (小さな教室で、ちょこちょこ歩く敦史と、女の先生)
 「岐阜市にある難聴幼児通園施設・みやこ園。初めて敦史くんに積極的にかかわってくれた施設でした。ここには、体験を通して言葉を理解させていく方法があったのです。家庭こそが言葉の学びの場。母親の役割は大きいと教えられました」。
 (先生と一緒に、包丁できゅうりを切る敦史)
 「この施設での訓練は、週二日。あとは母と子だけの手探りの教育が始まります」
 (敦史に大きなTシャツをかぶせるています。手が出てこない、大きなシャツに困っています)
 「これは、大きいというイメージを学ばせようとしている様子です。お父さんの大きなシャツを着せ、体で感じさせようとしています」
 貞子(敦史の手を大きく広げながら)「大きいね!」
 (一緒に洗濯物をたたむ母子)
 「洗濯物をたたみながら、服にはズボンやシャツなどの種類があることを伝えようとしています。体験させながらイメージを与え、単語を学ぶための準備をしていきました」
 (4歳の敦史の写真)
 「4歳になった敦史くん、まだ変化は見られませんでした。ただ一つ、何かがほしいとき、指で指すようになりました。そしてある日、忘れられない出来事が起きます。夕食の準備をしていると、何かを必死に訴えかけてきたのです」
 (台所で仕事をしている貞子さんの横で、泣いて訴える敦史)
 貞子「私が、これじゃないの、あれじゃないのって指し示すものを全部否定するんですよ。向こうは、お母さんなんで分かってくれないんだよというふうになるし、私は、ええっ、何、わかんないよって、わーって興奮して、二人で泣き崩れたことが一回あったんですね。そのときに初めて、彼もとても悔しい思いをしたんだろうし、私は、ああ、もう本当にコミュニケーションを、彼とコミュニケーション方法を教えなきゃだめだなっていう・・・」
 「敦史くんは正確なコミュニケーションを求めている。手話を本格的に教え始めます。しかし、盲ろう児への言葉の教育について、情報はほとんどありませんでした」
 (母子で言葉を教えようとがんばっている)
 (サリバンの書いた本の写真)
 「この時、貞子さんの心の支えとなった本があります。ヘレン・ケラーの家庭教師、サリバンが書いた教育日誌です。サリバンの一つ一つ体験させながら言葉を教えていくやり方は、まさに貞子さんと同じでした。自分だけじゃない、二人の姿に励まされました」。
 貞子「こんな子は自分ひとりという、寂しい思いをしたお母さん。やっぱり最初はそこなので、仲間がいると言うのは大きいですね。だから、ヘレン・ケラーは仲間の一つ、一人(笑い)」
 (5歳の敦史。「先生と敦史と二人で病院に行ってきた」といいながら動かすお母さんの指を一生懸命触っています)
 「5歳を過ぎ、手話を使えるようになった敦史くんです。二人で泣いたあの日から、1年半後のことでした」

 (かばんを三つもぶら下げて、寄宿舎に入っていく敦史。自分の部屋に入り電気をつけ、荷物の整理をする)
 「敦史くんは今19歳。実家を離れて寄宿舎に一人で住み、身の回りのことは自分でできるようになりました。言葉を身につけたことで、敦史くんの世界は大きく広がり、今では大学を目指すまでになっています」

 (雷坂先生と教室で、指文字発言)
 敦史「(母が)手話とかを覚えさせたり、何とかして支えてくれているから、自分としては感謝しています」

 (2010年全国盲ろう教育研修会会場。続いて研究会の間、盲ろう児が集まっている部屋の様子)
 「毎年夏、全国から、盲ろう児と家族、教師、そして研究者が集まる研究会が開かれています。盲ろう児の教育方法について、お互いに情報交換をすることが目的です。言葉の獲得は、どの盲ろう児にとっても難しく、障害の程度も違います。一人一人の取り組みについての情報を大切にしています。
 
 盲ろう児の母親、渡辺あかねさん「盲学校でお世話になっているんですけれども、やぱりなかなか情報が来なかったりとか、私が疑問に思ったことを、すぐに解決できるようなところがないとか」
 「子供たちの可能性を広げるための盲ろう教育。日本でそれをどう確立して行くのかは、これからの課題です」

 (NHKスタジオに戻ります。机の前に、福島智さんと通訳者、そして中澤恵江先生が座っています)
 町永「盲ろうの障害のある19歳の青年の様子をごらんいただきました。あのヘアスタイルも、いかにも若者らしい19歳の森敦史さんですけれども、実はここに至るまでの学びの場には、お母さんに言わせれば、何もなかった。さあ、その課題と現実をどう見るのか。ご専門のお立場から、スタジオにおいでいただいています。まず、東京大学先端科学技術研究センター教授でいらっしゃる、福島智さんです。福島さんも盲ろうの障害がおありで、私どもの話は、指点字という形で、通訳をしていただきます。通訳は春野ももこさんです。そして、もうおひと方、盲ろう教育の専門家でいらっしゃる、国立特別支援教育総合研究所の中澤恵江さんです。よろしくお願いいたします」
 中澤「よろしくお願いします」
 町永「まず福島さんにお伺いしたいんですけれども、小さいころはお母さんが本当に一生懸命ですけれども、やはり家庭の中、親が担わざるをえないというところが大きいんでしょうか」
 福島「今、ビデオでも流れていた、お母さんと言葉が通じなくて、わーっとなるというようなこと、本当に私も胸が痛みますよね。でも、そういうお母さんの美談ではあるんですが、逆にいうと、お母さんがこうやってすごく苦労して、必死で教育しないとだめだったと言うのは、その、公の仕組みが不足しているということの裏返しでもあると思うんですよね。どんなご家族でも、どんな条件のご家庭であっても、あるいはどこに住んでおられても、盲ろうの子供たちがきちんと教育を受けられるような、そういう仕組みが必要だと思いますね」
 町永「はい、今の森敦史くんは盲学校に通っていますけれども、その現状もなかなか。今度は教育の場も手探りと言うように見受けたんですが」
 中澤「日本では、盲ろうに特化した学校というものがございません。ですので多くの場合、盲学校か、ろう学校に行きますが、盲教育は、逆にいいますと、聴覚に依存する教育、ろう教育は、視覚に依存する教育です。そうしますと、視覚聴覚ともに使えない、あるいは使いにくい子供たちにとっては、盲教育、ろう教育の蓄積されたノウハウでは、十分に対応されない部分がたくさんある状況にあります」
 福島「例えばですね、今、テレビをご覧になっている方の立場で言えば、このテレビの画面が急に消えてしまって、さらに音も消えてしまっている状態が、盲ろうの世界なんですよね。だから、外部の情報が何も入ってこない。非常に特殊な、深刻な状態になるので、国際的にはですね、盲ろうという障害を独自のカテゴリーで認めよう、そうやって対応していくという流れになってきているんですが、日本はまだ、法的に位置付けられていなくて、盲ろうという独自の枠がないので、それが、盲ろうの子供たちへの教育の問題とか、大人の盲ろう者への福祉の問題などに、やはりブレーキになっている、マイナスの影響がかなり出ていると思いますね」
 町永「中澤さん、制度的にも盲ろうということが定義されていないことが、教育の課題につながっているということですか」
 中澤「はい、制度的に位置づけられていないために、例えば、大学での教員養成課程で、盲ろうについての専門的な教員を育てるシステムがありません。そうしますと結果的に盲ろうの教育を知っている教員がいない。それから、盲ろうの子供のためのプログラムが用意されていない、そういう結果になっております」
 町永「さあ、この森敦史さんですが、大変に能力があると周囲の先生方も認めていて、進学したい。つまり、大学に行きたいということなんですが、大学進学に向けての課題も、大きなものがあります。ご覧いただきましょう」

 (敦史が、盲学校近くの街を、白杖を使って一人で歩いています。後ろから、雷坂先生がそ知らぬふりで追っています)
 「進学を控えて、敦史くんは今、学生生活に向けた訓練を重ねています。この日は、敦史くんが希望した、買い物の訓練。先生が見守り、安全な場所で行います。この授業の最大のポイントは、手話などを使わない人たちと、コミュニケーションをとることです。点字と文字が併記されたボードで、店員さんに買いたいものを伝えます。この日は、練り歯磨きとジュース」
 (コンビニに入った敦史、点字と墨字の五十音が重ねてあるボードを使って、定員に買いたいものを伝え、商品を探してもらっています。1文字ずつ伝えるので、時間がかかります)
 「時間はかかりますが、手話のできない人とのコミュニケーションは、敦史くんにとって、貴重な体験です。しかし、大学進学には課題もあります」
 (教室に戻り、パソコンとブレイルセンスでの学習の様子。続いて、体育の授業で全力で走る敦史くん)
 「敦史くんの潜在的な能力は、先生たちも認めています。ゆっくりと、そして着実に学び続けてきました。時間をかければかけるほど伸びていく敦史くんの能力。しかし、この学校にいられるのは、来年の3月までです。先生たちは、あと何年か学ぶことができれば、大学に行く学力は十分につくと考えていますが、今の制度ではかないません」
 雷坂「彼自身、十分に普通の教育を受けられるだけの力がありますが、それでも決められた3年間では到底追いつかない。2倍とか、3倍とかの期間がほしいなと、我々は強く思っています」
 「来年卒業しなくてはいけない敦史くんは、今、大学への推薦入学を考えています。大学では福祉学部に進み、障害者のコミュニケーションについて学びたいと思っています」
 敦史「盲ろう者のための仕事ととか、何かをするとした場合、大学で学んだことが役に立つことがあるかなと思っている」

 (どこかの大学校舎の映像)
 「今、入学を考えている大学のひとつ、東京都内の私立大学です。聴覚障害者への教育を専門としている、斉藤教授は、これまでの敦史くんの努力を高く評価しています」
 (斉藤佐和教授が、考えています)
 「しかし、実際に入学を考えると、課題が多いといいます。その一つは、学ぶ科目の多さです。教養科目から、専門分野まで、ついていけるのか。また、大学生活への援助や、講義の際の通訳はどう確保するかなどです」
 (大学での教育科目表が写しだされています)
 斉藤「大学の中心になるのは、講義とかゼミとかありますけれども、一般の授業なさる先生もどんどん変わりますけど、その方たちがしゃべっていることっを、正確にその時間内に、どう、盲ろうの方に伝えていくのか。将来的に言えば、卒業された後の進路をどう考えるかっていうことも、大学としては考えないわけにいかない。そういうことをいろいろ考えると、率直に言って、戸惑いがあるというのは事実だと思います」
 (敦史が、ブレイルセンスに何か打ち込んでいる)
 「先天性の盲ろう者として、大学に進学すれば、敦史くんは日本で始めてのケースになります。敦史くんは学び続けられるのか。多くの課題が残っています」

 (再び、スタジオに戻る)
 町永「中澤さん、敦史くんの教育環境は、日本でも大変先進的な取り組みをしている教育環境でありながらですね、進学となると、もっともっと時間が必要だと担当の先生がおっしゃっていますけど」
 中澤「敦史くんは、先天性の盲ろう児の中でも、飛びぬけて理解力の高いお子さんです。それでも、先生がおっしゃるように、少なくともあと2,3年、教育の期間が必要だと言っています。と、言いますのは、盲ろうの子供たちは何の意図もなく、目から耳から情報が入ってくる子供たちとは違って、一つひとつ体験しないと概念が分かっていきません。ですから、自分が接したことのある人以外にも、世の中にたくさんの人が存在しているということさえ分からないんですね。それくらい時間のかかる教育です。しかし、残念ながら日本の学校教育法では、盲ろうの子供も健常な子供と同じ数の年限しか許されていません。一方、海外で盲ろう児教育が確立している欧米諸国では、発達の状況に応じまして、学習する年限の延長が認められていまして、アメリカでは21歳、他の国ではさらにより長く認められている場合があります。日本においても、こういった状況をかんがみて、制度をより柔軟にしていく必要があるのではないかと思っています」
 町永「教育現場の先生にとっては、時間さえあればという思いがあって、歯がゆい感じがしていらっしゃるでしょうね」
 中澤「はい、特に敦史くんの担当の先生たち、非常に熱心に盲ろう教育を確実にしていく中で、もう少し時間があれば、もっと良い教育ができるというように皆さん残念に思っていると思います」
 町永「今度は受け入れ先の大学について、福島先生にお話をお伺いしたいのですが。大学側の受け入れにはためらうところがありますが、これは福島さんどんなふうにごらんになりますか」
 福島「やはり通訳がいないと、大学の講義とかゼミというのは、受けられないわけで、だけどその、盲ろう者に対する通訳者の派遣制度というのは、あることはあるんですが、それは例えば病院に行ったり、買い物に行ったりするって言う、日常生活での支援が原則なんですよね。例えば、教育現場に通訳者を派遣するといった、公的な制度がないんですよね、日本では」
 町永「中澤さん、今福島さんがご指摘のように、日本全体で、こうした盲ろう者の教育の課題をどう考えるのか」
 中澤「まず第一に大事なのは、盲ろうという障害が独自のニーズがあって、配慮が必要な障害なんだということが認識されるということと同時に、法的に位置づけられるということが、何よりも大事だと思います。障害者権利条約が盲ろうに関して非常に画期的であるというのは、盲とろうと並んで、盲ろうという言葉が第24条の教育の中に表れておりまして、この障害のために、独自の配慮が必要であるということが述べられているんです。これは画期的なことで、世界的に盲ろうが認識されてきている表れだと思います。この権利条約が批准に向かって動いていく中で、ぜひ、日本においても盲ろうが障害として確立されていくことを、私は願っております」
 町永「そういった機運で言えば、今、障害者制度改革推進会議も議論を重ねています。盲ろうという制度、今まで法律的になかったと言うのも、ちょっとびっくりするんですが。どう位置づけるかというのも、これから注目していくべき点ですかね」
 中澤「はい、そうです。推進会議には、盲ろう当事者が代表として参加しておりますので、そこでの議論も、盲ろう者の立場から行える可能性が出てきましたので、大変期待したいと思っていおります」
 町永「大きく動くかどうかでありますね。福島さん、これからの課題として、教育の場での盲ろう者の支援、どんなふうにお考えでしょうか」
 福島「はい、敦史くんの例でも分かるように、まず高校までの段階での盲ろうの子供たちの教育を、丁寧にしっかり、ゆっくり、だけど十分にできるということが大事だろうと思います。そうして、今度は高校を出た後も、大学進学も含めて、勉強を続けたいという希望があるのであれば、丁寧に、しっかり勉強できるように、環境を整えることが大事だと思うんですね。これは、盲ろうと言うことだけではなくて、いろいろな条件を持っている人が、世の中にはおられるわけですよね。障害ということだけではなくて、例えば経済的に苦しいとか、いろんな家庭の事情とかで。そういった方たちが教育を受けるという問題と、根っこは同じだろうと思うんですよね。見えなくて聞こえないといった、非常に極限的な状況の障害を持った人たちでも、ずっと勉強ができる仕組みがある社会であれば、みんながね、ちがう状況を持った人たちもみんながずっと、人生を通して学び続けることができる豊かな社会の表れだとい思いますので。盲ろうの子供たちや、盲ろうの大人への生涯を通した教育システムを作っていくという取り組みを、ぜひ進めていただきたいと思いますね」
 町永「はい。明日はヘレン・ケラーの母国であります、アメリカの盲ろうの教育の現場を見ていきます。では今日は失礼いたします」







2010年11月3日(水) 石田良子さんからいただいたデータ2

2010年11月2日
   NHK 解説放送・副音声
  福祉ネットワーク (第2回・全2回) 

 *()内は、画面の説明
 *「」の前に名前がないのは、ナレーションです。ナレーターは女性です。
 * 画面には字幕が出ています。

 (スタート部分、ヘレン・ケラーの3枚の写真と、ナレーションは、第1回と同じ)

 (アメリカの街角。体格のいい黒人女性が交差点の横断歩道の前に立っています。胸には何か絵と文字の書かれたカードを下げています)
 「ヘレンケラーが生まれて130年、同じ障害に向き合いながら、日々格闘する人々がいます」
 (住宅地の道を、白杖を使って歩く男性。この男性だけでなく、横断歩道にいた盲ろう者も、使っている杖は日本のものとは少し違っています。杖の先、に白くて丸いピンポンの玉ぐらいの物がついています。杖の使い方も、地面を軽くたたいて歩く日本の杖とは違い、地面の上に玉を転がすように、押しています。日本製でも一時作られた、土つきの部分に2個の車をつけた白杖に似ていると思いました)
 「その現代のヘレン・ケラーたちを、社会はどう支えていくのか」。
 (盲ろう児教育の教室内)
 「シリーズ、盲ろう教育。2回目はヘレン・ケラーの母国アメリカの先進的な盲ろう教育と、自立への支援策です」

  タイトル
  第2回 アメリカ 自立への挑戦

 (スタジオ内)
 町永「昨日から2回にわたって、この時間は盲ろう教育を考えてまいります。2回目の今日は、アメリカの盲ろう教育を見て、その現状と意味合いを考えます。その前に、昨日に引き続いて、盲ろうといいましても、障害の状況・程度によって、いろいろなんですね」
 (昨日と同じ盲ろう者の状況を表したパネルの説明・省きます)
 「アメリカの場合は、早くから法律でこの盲ろうを位置づけて取り組んでいます。先進的な取り組みをしているアメリカのある学校をご覧いただきましょう」

 (パーキンス盲学校の全貌。中央に高い塔。大きな木々に取り囲まれています。カメラが建物内部に入ると、シャンデリアの前に、ヘレン・ケラーとサリバンの写真が飾ってあります)
 「アメリカで初めての盲学校として、1829年に創立されたパーキンス盲学校。歴史あるこの学校は、ヘレン・ケラーやその家庭教師、アン・サリバンの母校でもあります」
 (廊下の手すり伝いに、先生に手を引かれて歩いてくる女の子)
 「この学校に通う、10歳のジェナちゃんです。生まれた時から、見えない聞こえない盲ろう児です」
 (二人が教室に入ります。中には3人ほどの子供が見えています)
 「このクラスは、盲ろう児童だけで、一人の子に、ほぼ一人の先生がついています。3年前まで、ジェナちゃんはほとんど言葉を理解できませんでした。今は単語を少しずつ覚えているところです。盲ろうの子供について、専門的な教育を受けた先生が、言葉を教えます」
 (ジェナちゃんは椅子に座り、前の先生がジェナちゃんの手を動かしながら、何かを教えています)
 「このクラスの名札には、名前の頭文字や、好きなものを形にして、手で触っても分かるようになっています」
 (並んだ名札。顔写真の下に、いろいろな形や色のマークがついています。その中の1枚を、ジェナちゃんに渡して触ってもらっています)
 「単語の一つとして、人の名前をこうして学んでいきます」
 先生「キミちゃんは今日は病気でお休みです」
 (話しながら、ジェナチャンの手を取って、手話を教えています)
 「顔が見えず、声も聞こえないため、名札を触って誰が出席しているのかを知ります」
 (並んで座っている盲ろう児たち。先生は順に話しかけています)
 「先生が隣に移ると、ジェナちゃんの様子が変わりました」
 (ジェナちゃんは、盛んに手を口に当て指を動かしてています)
 「口に手をやるのは、不安な時の仕草です。もう一人の先生が、すかさず手を差し伸べます。ものが見えず、音も聞こえない盲ろう児は、不安に陥りやすく、直接触って落ち着かせます」
 (他の先生に手を引かれ、抱きしめられて、ジェナちゃんは落ち着きました)
 「こうした心理的なサポートにも、教師が受けてきた専門的な教育が生かされています。授業では、凹凸のある絵本を触りながら、単語を覚えていきます」
 (絵本のページには、ふくらみのある人の体の絵や、鍵の絵)
 先生「それは鍵です。手話でいえるかな?」
 「物の形と単語を、一つ一つ結びつけていきます」
 (廊下で、次の先生とバトンタッチ)
 「簡単な文法の授業も始まっています。担当の言語療法士は、大学院を出た言語教育の専門家です」
 (机に布の袋を出しました)
 「袋の中には、この日の課題で使う、日用品が入っています。箱の中に物を入れる動作を繰り返し、“物を箱の中へ”といった、単語同士をつなぐ、文法の基礎を学びます」
 (次々に、物を箱に入れていきます)
 先生「ボウル イン。ボウルを箱の中へ。よくできたは ジェナ」
 (二人で手をたたきあって喜ぶ)
 「こうして、単語と単語をつなぐ方法を、一つ一つ学んでいきます」

 (熟年の女性、パーキンス盲学校、盲ろう教育部、マーサ・メイジャーズ部長)
 マーサ「ジェナの力はとても伸びています。以前は殆ど言葉を理解できていない、1才児ぐらいの状態でしたが、今では基本的な文法を理解し、点字を覚える直前の段階にまできています」。

 (4人の盲ろう児が並んですわり、一人の先生の手話による話を見ています。弱視ろうの児童たちのようです)
 「この学校では、子供の発達段階に合わせて、体系的なプログラムが組まれています」
 (先生が一人の男の子に、「書いてみましょう」というと、男の子が立ち上がり、白板にマジックで文字を書いています)
 「言葉の基本を学んだ後は、点字やアルファベット、さらにパソコンを使った学習に進みます。一人一人が学ぶ早さに合わせて、個別のカリキュラムが組まれています」
 (女の子が、パソコンの画面に移る大きな文字と絵を見ています)
 「子供の能力を最大限に引き出し、社会に送り出すことが、この学校の目的です、。
 マーサ部長「すべての子に、可能な限り自立してほしいのです。必要な支援を受けながら、盲ろう者が社会に参加し、その能力を十分に発揮できるように助けるのが、私たちの役目です」

 (白杖を使って、一人で廊下を歩く青年)
 「パーキンス盲学校を卒業し、自立した生活を送り始めた人がいました。クリス・ジェットさん二十歳。3ヶ月前から、このアパートで一人暮らしをしています」
 (部屋に入り、コーヒーを沸かす準備をしています)
 「盲学校を卒業し、今は大学を目指して、勉強中です。クリスさんは視覚に障害があり、まったく見えません。聴覚は補聴器をつけても、人の言葉を聞き取ることは難しいといいます。しかし、一人暮らしがしたいと、このアパートに移りました」
 (洗濯物を部屋から運び出すクリス)
 「洗濯や掃除など、身の回りのことは、殆ど一人でこなします。アパートの1階にあるコインランドリーに着きました」
 (中にいた女性が、「全部使用中よ」と言っています)
 「親切に声をかけてくれる人がいても、聞こえません。1台1台、手で振動を確かめて、止まっている洗濯機を探します」
 クリス「全部使用中だね」
 「一人暮らしには困難もありますが、クリスさんはいつも前向きです」
 クリス(音声と手話、音声も割りとはっきりしています)「パーキンス盲学校に入る前は、何もできないと思っていました。僕は暗闇の中にいたのです。でも、学校で点字を覚えたことで、できないことは何もないと思えるようになりました」。
 (街の歩道を白杖を使って歩くクリス)
 「クリスさんは、アパートから外出することもあります。危険な横断歩道を渡らなくてすむ範囲に限って、一人で出かけます。この日はレストランにやってきました」
 (店の戸をあけて中に入るクリス。あいている席を見つけて座ります)
 ウエイトレス「メニューは必要ですか? (反応がない)この人聞こえないの?」
 (そのとき、クリスが鞄から二つのものを取り出しました。一つはブレイルメモのようなもの、自分の前に置きます。もう一つは、手のひらサイズで、ひらくと上が文字画面、下にはキーボードがついています)
 「取り出したものは点字を打つと文字が画面に現れ、音声も出ます」
 機械「私は盲ろうです。メッセージを入力してください」
 「しかし、誰も気付きません。・・・ようやく気付いた店員がやってきました」
 (画面を読んだ店員がキーをたたいています)
 「ご注文は?という文章が点字に変換され、それをクリスさんが読みます。点字で注文を打ち込みます。伝わったようです」
 (店員が画面を見て納得。書き留めています。画面には、フライドチキン、ライス、コーヒーと書かれています)
 「クリスさんは、今の生活を支えているこの装置の使い方をパーキンス盲学校で学びました。最新の技術を使って、少しずつ行動の範囲を広げています」
 (注文の品が届き、ナイフとフォークを使って食べるクリス)
 (自分の部屋に戻ったクリス)
 クリス「僕は、活動を制限されるのが嫌いなんです。障害がある人でもない人でも、挑戦することをためらうのは、恐怖を感じるからです。でも、恐れるよりも、新しいことを学ぶチャンスを選び取るべきだと思います」

 (画面は、スタジオに戻る)
 町永「ヘレン・ケラーの母校でもあるパーキンス盲学校の取り組みをご覧いただきました。スタジオには昨日に引き続いて、(・・・福島智さんと中澤恵江さんが紹介される・省きます)よろしくお願いします。こうしたパーキンス盲学校の取り組み、福島さんはどんなふうに評価なさいますか」
 福島「さすが、ヘレン・ケラーの国という感じですよね。アメリカでは、盲ろうという障害のカテゴリーが法律で独自に決まっていて、すでに40年以上前にそういう法律ができているんですよね。それはやはり、ヘレン・ケラーさんの存在がね、有形無形の大きな、良い意味での影響を与えていると思います」
 町永「そうですね。教室の皆さんの取り組み、とても親密な感じもしていたんですが、どんなふうにご覧になりましたか」
 中澤「はい、盲ろうという障害がもたらす、真理的な影響を、よく分かって、細やかに対応していること。それからもう一つ、お気づきかと思いますが、盲学校ですが、全教員が手話を使えるようになってます。これが盲ろうのニーズに応えている一つの表れだと思いまして、法律で盲ろうが定義されているために、大学院レベルでの盲ろうの教育の専門家養成が可能にんなっています。また、パーキンス盲学校は、非常に近隣の大学と連携をとっていて、実習をしたり、あと、研究成果を生かした授業をしたり、とてもよいつながりを持っています」
 町永「福島さんにもお伺いしたいんですが、VTRの中で学んでいるクリス君という青年がいましたけども、社会に出ていく、一人でレストランに行って自分の好きなメニューを頼むという光景も出てきましたけども」
 福島「いやあ、面白いですよね、クリスくん。私もね、以前若いころ、アパートで一人暮らしをしていたんですよね。5年ぐらいですけれども(字幕には10年と出ました。言い間違いを訂正したのかな?)、アパートの4階にすんでいて、彼は1階がランドリーって言ってましたけど、私の場合は1回がまんじゅう屋さんだったんですけれども、でも、道1本隔てた向こう側にある酒屋に行けなかったんですよね。私は1階のまんじゅう屋には行く必要がないので、本当は酒屋に行きたかったんだけれども、それが危ないから、やっぱり行けなかったんですよね。クリスくんのことなんですが、すごくチャレンジ精神旺盛で、それはすばらしいことです。ただし、通訳・介助者、アメリカではサポート・サービス・プロバイダーというんですが、SSPといって、彼が、支援制度が不十分で、もしそれがなくて仕方なく一人でいっているんだったら、それは気の毒だなと思うんですよね。ランチ食べにいくたびに、あの機械で苦労して、なかなかオーダーできなかったりすると、腹が減りますよね」
 町永「福島さんのお立場としては、自立への道筋としては、介助者や通訳者がついていく場合と、一人で行く場合と、自分で選択できるかどうかが大きなポイントだと」
 福島「そう、そういうことですね」
 町永「中澤さんはどんなふうに」
 中澤「はい、あの映像を見て気がついたことがあって、一つは、彼がいけるレストラン、実はずうっと歩道を通っていけているというところがポイントだったと思うんですよ」
 町永「そういう環境が整っているというところをみなければいけないと」
 中澤「そうですね。きっとそういうアパートを彼が選んだのだろうと思います。それからもう一つ、きっと毎回違うレストランに行くわけではなく、あのレストランに彼はこれからも行くんだろうと思います。これをきっかけとして、彼が地元の人たちとの交流を深めていく良いチャンスにもっていけるかどうかは、これからの取り組みだろうなと思います。盲ろうの場合、やはり、なじみの店を作っていくのが、とても大事な側面だと思いました」
 町永「続いては、学校を出たあと、つまり、社会に出た後の支援はどうあったら良いか。かなり難しいんですけど、アメリカでは国立ヘレン・ケラー盲ろうセンターが担っています。その取り組みをご覧いただきましょう」

 (初めに映し出されていた、横断歩道の前に立つ女性の場面です。道には車が行き交っています)
 「アメリカでは国の支援機関が、盲ろうの人々の生活を手助けしています。この日は、横断歩道をわたる訓練が行われていました」
 (国立ヘレン・ケラーセンターの指導員が、黒人盲ろう女性に、手話で説明しています)
 「この女性は、殆ど聞くことができず、視覚にも障害があります」
 (指導員が、盲ろう女性の胸にカードを下げます)
 「信号を渡るのを、手伝ってくださいというカードを持って、通りがかりの人に、一緒にわたってもらう訓練です」
 指導員「通りの反対側で待っています」
 「安全が脅かされない限り、指導員は手を出しません。離れたところから見守ります」
 (盲ろう女性は、カードを顔の横に立てて待っています。女性が近づいてきました)
 「一緒に渡ってくれる人が現れました。女性に手を引いてもらって、横断歩道を渡ります」
 (渡り終えた盲ろう女性に指導員が注意を与えています)
 指導員「相手に手を引いてもらってはいけません。自分のペースで歩けないのは、とても危険だからです。相手の腕を、自分でしっかりつかんで、自分の意思を相手に伝えるのです。主導権は自分がとるのです」
 「もう一度やり直しです」
 (今度は男性がカードに気付きます。女性の手を引こうとしますが、握られた手を離して、男性の肘をつかむように直しました)
 「手を引かれると、スピードについていけずに倒れたりして、危険なのです。今度は自分が相手の腕をとりました」
 指導員「今日はとてもよくがんばったわね。来週はタクシーに乗る練習よ。横断歩道を渡ることは、とても大事なので、集中的に練習しました。彼女はまた一つ、新しい生活のすべを身につけました」

 (芝生と木に囲まれた、きれいな建物。2階建てくらいかな? それほど大きくはありません)
 「盲ろう者の支援を行っている、国立ヘレン・ケラー盲ろう者センターです」。
 (建物の内部。部屋には機器類が並び、何人かの人がいます。相談員と盲ろう者でしょう)
 「連邦政府によって、ヘレン・ケラーが亡くなった翌年の1969年に設立されました。生活訓練や、就職活動のサポートを行っています。盲ろうの人々が社会に参加し、その能力を発揮できるようにするためです」
 (熟年の男性。国立ヘレン・ケラーセンター所長、ジョー・マクナルティ)
 所長「教育と職業訓練の機会を与えられれば、盲ろうの人々は十分、自活できます。その機会を与えることが、社会の役目なのです」

 (会社の中の部屋。一人の男性がパソコンに向かっています)
 「国立ヘレン・ケラーセンターに仕事を紹介され、経済的な自立を果たした人がいます。サイモン・ガウディウソさん35歳は、この会社で、初めはパートタイマーとして働き始めました。仕事はコンピュータ・プログラマーです。聴覚と視覚に障害があり、補聴器をつけても耳はかろうじて会話が聞こえる程度。視野は極端に狭く、白黒反転したパソコンを使っています。それでもプログラミングの能力が高く評価され、正社員に抜擢されました。
 (上司らしき人と、会話しています)
 上司「サイモンが初めにパートタイマーとして働き始めた時は、ちょっと戸惑いました。あのころは、彼の仕事がうまくいくかどうか、不安でした。でも、我々が間違っていました。彼はこの会社の中でも、とても優秀なプログラマーです」

 (議事堂周辺の風景)
 「国立ヘレン・ケラーセンターでは、政治への働きかけも行っています」
 (若い男女の盲ろう者が、集まってきています)
 「まい年夏、盲ろうの若者たちを集め、議会でのロビー活動を展開しています。国会議員などと面会し、盲ろう者への支援の充実を求めます」
 (議事堂内を介助者と歩く若い盲ろう女性)
 「その一人、コリー・ベッサートさん。去年短大を卒業しました。上院議員の政策秘書に、盲ろう者を助ける通訳や介助者をもっと増やしてほしいと訴えました」
 (秘書との話し合いの部屋。秘書は熱心に聴いています)
 コリー(手話。通訳者が音声通訳)「大学で通訳・介助サービスが足りずに、とても苦労しました。9年かけて、ようやく卒業しました。盲ろう者が社会に積極的にかかわるには、通訳・介助サービスは必要不可欠です。新しい法律を作って、通訳・介助者の賃金を保証する仕組みを作ってください」

 (再度、廊下を歩いています。へやの中では、若い議員が迎えます)
 「下院では、直接議員に面会しました。こうした活動によって、盲ろう者への新たな支援法案が議会に提出されました。盲ろう者の声が、少しずつ社会に反映されています」
 コリー「ヘレン・ケラーが私に勇気を与えてくれたのです。彼女は世界中を飛び回って、私のような障害者のために、生涯を捧げました。彼女のように、社会に貢献すること、それが私の目標です」
 (彼女の横に寄り添うようにたったまま、うなづきながら聞く議員)

 (スタジオに戻る)
 町永「アメリカの国立ヘレン・ケラーセンターの取り組みをお伝えいたしました。かなり日本とは違った、踏み込んだ取り組みも見えました。この、国立ヘレン・ケラーセンター、名前にヘレン・ケラーとついているのも、大変意気込みや位置づけも大きいかなと思うんですが」
 福島「素晴らしいと思いますね。アメリカはご承知のように、そんなに社会保障は充実していないし、医療制度とかも問題あるし、障害者の福祉も先進国の中では、いろいろ問題があるんですが、それでも、盲ろう者という非常に困難な状況におかれた人たちに対して、連邦政府がね、40年前から法律を作って予算措置をして、生活訓練であるとか、職業訓練を行うというのは、やはり、すべての人の可能性を最大限発揮させようという、アメリカン・スピリッツ。アメリカの精神の表れなのかなと思いますね。そういった訓練も素晴らしいんですが、それだけじゃなくて、一番大きいのは、元気付けるということです。エンパワー、エンカレッジ。力づけたり、勇気を与えるという部分が、すごく大きくて、私アメリカの盲ろう者何人か知り合いがいますが、みんなすごく元気がいいんですよね。元気いっぱいと言う感じ。それがね、日本も見習うべきだし。ヘレン・ケラーセンターみたいなものも、実は日本でも東京都に、昨年、支援センターができたんですが、ただ、まだ東京都だけですし、日本版のヘレン・ケラー・ナショナルセンターを国の責任で作って、生活訓練だけじゃなく、職業訓練まで含めたことをできればよいなと思いますよね」
 町永「実際に街頭に出て、横断歩道を渡る訓練も実施していました。これはどんなふうに考えますか」
 福島「そうですね、それがねちょっと現実の矛盾を反映していて、盲ろう者も専属のガイドしてくだっさる人で、通訳・介助者がいるほうが、安心して外に出られるんです。だから、チャレンジ精神がいっぱいですよねというのも、一方で、社会的な支援が不十分だということの裏返しというか、そのあたりが、注意してみる必要があるかなと思います」
 町永「中澤さん、ナショナルセンター、国立で拠点的なセンターを持つことの意味合いは大きいと思いますが、どんなふうに」
 中澤「アメリカの場合、連邦政府がお金を出して、盲ろう教育にかかわるどんな情報でも、答えてくれるウェブサイトが開らかれています。4つの機関がサポートしているんですが、その一つに、このヘレン・ケラーナショナルセンターが、位置づいています。で、ヘレン・ケラーセンターはもう一つ役割がありまして、子供に関して、全国の盲ろうの家族の会の事務局がここにあるんです」
 町永「拠点機能を持っているということで、日本にはまだ、東京都にようやく相談センターができたばかりですが、これから必要でしょうね」
 中澤「ぜひ必要だと思います」
 町永「政治に関わろう、積極的に声を上げていこうという動きも見えたんですが。福島さんはこういった、ロビー活動をどんなふうに」
 福島「変化を待っている、変革を待っている、誰かがしてくれるというのではなくて、自分たちで声をあげてアピールしていくという、これは本当に見習うべきだなと思いました」
 中澤「盲ろうの子供たちに対する教育サービスについては、実はここ10年ぐらい、親の会がやっと結成されるようになりまして、徐々に力をつけて、現在行政に働きかけていくための準備が進みつつあります。ですので、アメリカのこういった取り組みから元気をもらいながら、日本でも近い将来に、子供の場合は親たちが立ち上がって、行政を動かしていくのではないかと期待しているところです」
 町永「まず教育をきちんと受けて、社会参加して、就労の道も確保して、そして、政治に対しても声を上げる、あるいは政治に参画するというような道筋を日本がたどれるかですね。そういった意味では、福島さんを前にして、なんですが、福島さんという盲ろう障害のおありの方が、世の中に出て、こうやって発言している意味合いは大変大きい」
 中澤「やはり昔は、盲ろうといえば、ヘレン・ケラーしか例がなかったのが、福島さんという素晴らしいシンボル・タワーが、今あるというのは、とても大きいことですよ」
 (福島さん笑っています。照れ笑いかな?)
 町永「福島さんご自身の後をつく人が、次々に出てきてほしいというお気持ちは強いんではないですか」
 福島「そうですね、森くんに、次、敦史くんにがんばってもらいたいと思います。わたくしはぼちぼち引退して、ゆっくりビールでも飲みたいかなと」
 町永「それはまだまだ先の夢にならざるを得ないとおもいますけれども、今言ったように、日本でも少しずつ兆しは見えている。国連の権利条約の批准に向けての話し合いも動いていまっすし、大きな大会、会議が開かれますね。日本で」
 福島「そうです、3年後にね、2013年なんですが、千葉の幕張で、世界の盲ろう者が集まるヘレン・ケラー世界会議というのがあるんですね。第10回目で、今回アジアで初めて世界中の盲ろう者の代表が集まってくるので、特に日本のね、盲ろう者関係もがんばっていますよということを世界にアピールしたいなと思いますし、その一方で、世界の現状を日本の中のその他の人たちにもアピールして、盲ろう者がたくさんいるんだということをね。困難な状況だけれども、みんながんばっていますので、協力よろしくねという事を、みなさんにアピールしたいと思っています」
 町永「今日はどうもありがとうございました」
 福島「ありがとうございました」

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