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2011年1月29日(土) 新保さんからのメール

題名 : [tomo-ml :425] 福島智さんの新聞記事
差出人 : シンポ トシミ
宛先 : "tomo-ml"
受信日時 : 2011年 1月29日(土曜) 20時39分

さて以下の情報を千葉から頂きましたので、ご存知かも知れませんが参考までに流します。
福島智さん関連情報です。

−−ここから−−
2011年01月27日付 朝日新聞・夕刊
コラム名「窓」論説委員室から
『触れるニューヨーク』

 目、耳ともに不自由な盲ろう者の東大教授、福島智さん(48)が、
1年間の在外研究で、昨年秋から米ニューヨークに滞在中だ。カラフル
でやかましいこの街を、どう感じとっているだろう。
 通っているのは、郊外にある米国立ヘレン・ケラー・センター。ヘレ
ン死去翌年の1969年にできた、世界有数の盲ろう者向けリハビリ・
研究施設だ。福島さんは日本版のセンターを作る夢に
向けて、インタビューを重ねている。
 ヘレンの存在とともに、60年代に大流行した風疹で多数の盲ろう児
が生まれたことが、米国で盲ろう者への支援策が進んだきっかけだった。
同センターは常時30〜40人の訓練生を受け入れ、様々なプログラム
を提供しているという。
 このセンターに24日、中米コスタリカをご夫妻で訪問する途上の秋
篠宮妃紀子さまが、立ち寄った。
 センターには事前に日本側から、皇族を迎える際のこと細かな規制の
指示があったという。でも、盲ろう者は直接触れることで初めて、気持
ちが通うコミュニケーションができるのに。福島さんは宮内庁側に、メ
ールでそうした懸念を伝えていた。
 紀子さまは通訳者を介して訓練生らと会話を交わしたあと、自然な形
で歩み寄り、それぞれの手をとってアメリカ式手話で「ナイス・トゥ・
ミート・ユー」と話しかけた。福島さんの手にはこう指で点字を打った
そうだ。「き・こ・で・す・あ・り・が・と・う」
−−ここまで−−

2011年1月29日(土) 協会だより NO21より

「社会福祉法人全国盲ろう者協会」の沿革

1.設立までの経緯
 本協会の設立のきっかけは、1981年(昭和56年)東京の「福島智君とともに歩む会」の設立と1984年(昭和59年)大阪の「障害者の学習を支える会(門川君とともに歩む会)」の活動から始まる。この二つの会は、それぞれ個人の大学入学を実現し大学生活を支えるための会で、日本では初めての試みであった。いずれも個人を支援する会であったため比較的順調に歩みを続けることができ、二人の大学生活を支えるという目的を達成した。
 1988年(昭和63年)12月、東京で「福島智君とともに歩む会」及び「日本盲聾者を育てる会」(日本で初めて本格的な盲ろう児教育を始めた学者グループと教師、親の団体)の関係者や、盲ろう者の家族、盲学校の先生などが集まって「新しい盲ろう者の会設立準備会」が作られ、次の決定をした。
  (1)月1回交流会を行いながら、どのような組織を作れば良いか模索していく。
  (2)将来的には全国組織とし、法人化して財政基盤を固める。
  (3)通訳者の養成と派遣、機関誌の発行、点字電話等機器の開発、教育方法の開発、センターの建設などを目標に活動する。
 このような動きを受けて大阪でも「新しい盲ろう者の会関西準備会」が生まれ、両会の交流会には盲ろう者の参加者が月を追うごとにふえていった。1991年3月東京の「新しい盲ろう者の会設立準備会」を母体として、社会福祉法人が設立されることとなった。

2.設立後の歩み
1991年(平成3年)
  3月 2日「社会福祉法人」設立認可(理事長小島純郎)
     8日「法人」登記
     通訳・介助者派遣事業開始
     教育方法開発委員会発足
     機器開発委員会発足
     機関誌『コミュニカ』第2号発行(創刊号は1990年10月発行)
  4月 東京盲ろう者友の会設立、以後、大阪をはじめとして、全国各地域に「盲ろう者友の会」が設立されるようになる。
  8月 『協会便り』第1号発行
     第1回「全国盲ろう者大会」開催(宇都宮・参加者170人)
1993年(平成5年)
  2月 第1回「盲ろう者向け通訳・介助者養成研修会」開催(東京都)
  3月 『盲ろう教育研究紀要−1』発行(教育方法開発委員会)
1995年(平成7年)
  3月 『目と耳の両方が不自由な子供達のために』発行(教育方法開発委員会)
     盲ろう者用点字電話機・改良ソフト完成(機器開発委員会)
 10月 盲ろう者生活実態調査実施
     「ブリスタ」が盲ろう者のための「重度身体障害者日常生活用具」として認可される。
1996年(平成8年)
  3月 『盲ろう者のしおり』発行
  4月 東京都が盲ろう者のための通訳・介助者派遣事業を開始
 12月 大阪市が盲ろう者ガイド・コミュニケータ派遣事業を開始
1998年(平成10年)
 10月 協会が第一生命保険相互会社より保健文化賞を受賞
1999年(平成11年)
  4月 点字ピンディスプレイが盲ろう者用「重度身体障害者日常生活用具」として認可される。
2000年(平成12年)
  3月 『介護保険と盲ろう者Q&A』発行
     盲ろう者用情報提供基盤整備事業を実施、全国の各友の会等へパソコン、点字ディスプレイ、ブリスタ等を貸与
  4月 国による「盲ろう者向け通訳・介助員派遣試行事業」開始
  8月 第1回「盲ろう者向け通訳ボランティア全国研修会」開催(東京都)
2001年(平成13年)
  2月 第1回「盲ろう者友の会指導者等研修会」開催(東京都)
  9月 「第7回ヘレン・ケラー世界会議」へ代表団派遣(ニュージーランド)、同会議において世界盲ろう者連盟設立、福島理事がアジア地域代表委員となる。
2002年(平成14年)
  8月 第1回「盲ろう者と地域住民との体験交流会」開催(宮城県)
 12月 協会事務所を新宿区西早稲田から千代田区神田神保町へ移転
2003年(平成15年)
  3月 『盲ろう者の自立と社会参加体験事例集』発行
     『盲ろう者向け通訳・介助技術マニュアル』発行
  7月 全国盲ろう教育研究会設立(会長・中澤恵江)
  8月 盲ろうの子とその家族の会「ふうわ」設立(会長・森貞子)
 12月 「盲ろう者向け通訳ボランティア全国研修会」を「盲ろう者向け通訳・介助者現任研修会」と改称して開催(新潟県)
2004年(平成16年)
  1月 「盲ろう者友の会指導者等研修会」を「盲ろう者地域団体指導者等研修会」と改称して開催(東京都)
  3月 小村理事長就任
 10月 小島前理事長逝去
2005年(平成17年)
  4月 盲ろう職員2名、全盲職員1名採用
2006年(平成18年)
  3月 10年ぶりの盲ろう者生活実態調査終了報告書配布
  5月 コミュニケーションネームとして「〜日本のヘレン・ケラーを支援する会〜」を採用
 12月 第61回国連総会で「障害者の権利条約」採択
     『ニュースレター』第1号発行
2007年(平成19年)
  2月 第1回「コーディネーター養成研修会」開催(東京都)
  3月 韓国でセミナー開催、「韓国視聴覚障碍自立と支援会」設立
     阪田理事長就任
  4月 盲ろう者地域活動活性化事業(地域利用券交付事業)開始
 11月 第1回「盲ろう者向けパソコン指導者養成研修会」開催(東京都)
2008年(平成20年)
  3月 三菱財団助成による障害者のための職場環境の整備事業実施
     厚生労働省が、全国の盲ろう者推定数2万2千人と発表
     『盲ろう者への通訳・介助〜「光」と「音」を伝えるための方法と技術〜』(読書工房)発行
     パンフレット『目と耳の両方に不自由を感じている方(盲ろう者)への理解のために』を2万部作成・配布
     『盲ろう者向けパソコン指導マニュアル』発行
     『盲ろう者のしおり 2008年版』発行
  4月 通訳・介助員派遣事業を平成20年度限りで打ち切りと決定、全国18道県を訪問して協力要請
 11月 「盲ろう者地域団体指導者等研修会」を「全国盲ろう者団体代表者会議」と改称して開催(東京都)
     「コーディネーター養成研修会」を「全国コーディネーター連絡会」と改称して開催(京都府)
2009年(平成21年)
  4月 盲ろう者向け通訳・介助員派遣事業の未実施県がなくなり全都道府県で実施
     パソコン個別訪問指導開始
     全国盲ろう者地域団体ブロック会議開催事業開始
  9月 厚生労働省が「盲ろう者支援に関する勉強会」を開始。平成22年度より宿泊型盲ろう者生活訓練等モデル事業を始めることを決定。
 10月 アフリカ・ウガンダで開かれた「第3回世界盲ろう者連盟総会」において、2013年「第10回ヘレン・ケラー世界会議」及び「第4回世界盲ろう者連盟総会」を日本で行うことに決定。

2011年1月30日(日) 石田良子さんから頂戴した書き起こしデータ

   1月29日(土)TBS 「報道特集」 
6時19分スタート
番組書き起こし 石田良子
 
 ()内は画面の状況説明。
 『』は、ナレーター(女性)の音声。

 (スタジオ。机を前に男性キャスターがすわり、横のパネルに「盲」「ろう」という文字が書かれている)
 男性「目と耳に障害があり、見ることも聞くこともできない、あのヘレン・ケラーのような境遇におかれている人たちが、日本にも2万人以上いるといわれています。外部からの情報を遮断された人たち。我々の想像を絶する状況が、こうした人たちの日常です」
 (学校の校庭隅の遊技場。ブランコに乗っている女の子。女の先生が歌いながらブランコを揺らしている)
 『ブランコが大好きな女の子、田中りんちゃん、3歳。りんちゃんは盲ろう者だ。視覚と聴覚両方に障害のある人のことを盲ろう者と呼ぶ。見えないそして聞こえない盲ろう者は、情報障害者とも言われている。りんちゃんの場合、明瞭な人の声などは補聴器を通してわずかに聞き取ることができるという』 
 (ブランコから降りて、三輪車に乗るりんちゃん。庭の隅に進み、三輪車と一緒に転ぶ。助け起こす先生。泣かずに手を前に伸ばして歩き出すりんちゃん)
 『りんちゃんには常に危険が付きまとっている。母親の麻友(まゆ)さんは目が離せない。それでもりんちゃんは好奇心旺盛。一人で歩き回る。』 
 (段差に躓いて転ぶが、立ち上がって、また歩きだすりんちゃん)
 麻友(りんちゃんを抱き上げて)「探検ですね。あっちは何かしら、確認しなくちゃ見たいな」。
 『りんちゃんは都内の盲学校に週1回通っている。今では一人で活発に動くりんちゃんだが、それまでは母親から離れることができなかったという』
 麻友「恐怖というか、怖いほうが先で、どこに何があるんだろうとか、誰が居るんだろうとか、見通しが立たないことのほうが一杯で、こんなに動けるのは本当に最近」
 (部屋の中や、校庭の隅でにこにこしながら動き回るりんちゃん)
 『りんちゃんにとっては、手がアンテナだ。ものの感触から場所や形、そしてそれが何であるかを自分の中で積み重ねながら理解してきたという』
 (お弁当箱の中をフォークで探り、おかずをうまく口に入れ、得意そうな顔のりんちゃん)
 先生方「じょうずー!」

 (父母に挟まれて泣いている、生まれたばかりのりんちゃんの写真)
 『りんちゃんは生まれてすぐ、目に複数の病気があることが分かった。そして、1歳を過ぎたころ、耳にも障害が見つかったという』
 麻友「どうして耳もなんだという、言葉では言い表せない気持ちで、とにかく、どうして行けばいいんだろうというのが、もう、一杯一杯でした。はい」
 (自宅で両親と一緒に食事するりんちゃん。引き出しからフォークを探す。でも、うどんを両手でつかんで食べる。食べ終わると、食器を流しに放り込む。「じょうず!」と両親の声が聞こえる)
 『麻友さんと夫の秀昭さんにとっては、手探りの育児だ。りんちゃんが理解できる言葉による語りかけを大事にしながら、できることは何でも自分でさせてきたという。娘の成長振りを実感している両親だが、常に将来への不安は付きまとっている』
 秀昭「今のところ友達から話しかけられても、まったく気付かない。無視の状態なんですよ。なので、そこをこう、少しでもコミュニケーションができるようにしたいなと思っています」
 (言葉にはならないが、声を出し、リズムを取りながら、手を動かして、確かに手遊び歌を歌っているらしいりんちゃん。歌い終えてにこにこ)
 『りんちゃんは今後どのように成長していくのだろうか』

 (画面が変わり、ふすまから顔をのぞかせている男の子。布巾でテーブルを拭いたと思うと、そのテーブルに乗ってしまったり。おやつのビスケットを食べる男の子)
 『この映像には、りんちゃんと同じ3歳の男の子が写っている。森敦史くん。敦史くんも盲ろう者だ。盲ろう者の障害の程度はさまざまだ。視覚聴覚それぞれが少し機能する人も居れば、まったく見えず、まったく聞こえない、全盲ろうと呼ばれる人も居る。敦史くんは生まれながらの全盲ろうだ。この男の子は今・・・」

 (画面が変わり、現在の敦史が学校の廊下を足に鈴を付けて歩いている)
 『19歳になっていた・・・生まれながらにして、全盲ろうの森敦史さん。敦史さんは今、都内の盲学校の高等部に在籍している』
 (画面に、筑波大学付属視覚特別支援
学校、東京・文京区と書かれている)
 『敦史さんの主な意思疎通の手段は、指文字という50音を指で表す手話だ。相手の言葉は、手の中で手話をしてもらい、その感触で理解する。盲ろう者独特の触手話という方法だ』
 (教室で、雷坂先生と指文字で話し合う敦史さん)
 『敦史さんには常に通訳が必要だ。そのため授業は教師と1対1で行っている』

 (敦史さんのあかちゃんの時の写真)
 『敦史さんは岐阜県で生まれた。生まれてしばらくは障害に気付かなかったが、生後6ヶ月のころには、視覚聴覚、その両方に深刻な障害があることが分かったという』
 (母貞子さん)
 貞子「二人で、病院の階段で泣いた覚えがあるんですけど、でももう、泣いたらすっきりしたんですよね。これ以上この子のために悲しい涙を流すのはやめようって」
 (難聴幼児通園施設「みやこ園」と書かれた門の前で母子の写真)
 『3歳の時、知人の紹介で、難聴の子供を専門に受け入れる保育園に入った。入園直後、園長からこんな指示が』
 貞子「廊下のところで、お母さんちょっと離れていてなるわけですよ。で、離す。敦史一人ぽつんと廊下に立ちますよね」
 『そのときの映像が残っていた。それまで片時も母親から離れたことのなかったという敦史さんを、あえて一人にしている。3歳の男の子はその場から1歩も動かない』
 (廊下に一人立ったままの敦史)
 貞子「この子は教えないと足も踏み出せないんですよ。だって前に、見えない聞こえないんですから彼にとってはそこから動かないというのが一番の安全の策なんだということを、彼はもう知恵として持ってる。声も出さない。おいでともいわない。1日でも二日でも多分あの子は立って待ってるんですよね」
 『職員が手を取って歩かせるまで、映像に写っているだけでも、29分間も立ち尽くしていた』
 貞子「それが、今あなたの子供の状態なんだよということを、そうすることで教えてもらったような気がします。だから何をしたらいいの。お母さん、だからこの子に何をしたらいいの?というのを考えなさいって。なんかいわれたような気がして」
 『この頃の敦史さんには、表情の変化が殆ど見られない。笑う、怒る、そんな感情表現の仕方も、彼には分からないのだ』
 貞子「うれしい時には本当にわーって大げさに笑ったりとか、泣きたいときにはもう、思い切りわーって泣いて見せるとか、そういう動きってそばに居れば伝わるんですよね。コミュニケーション技術がなくたって。子供の表情がふっと変わったときの気持ちを教える」
 『まず、感情をはぐくむことからスタートした。敦史さんの訓練、その学びの中でもっとも難しいのは、数や距離など、物事の概念を教えることだったという。敦史さんが小学生の時、母親の貞子さんは学校に頼んで息子に給食の牛乳を配らせてもらったという』
 貞子「牛乳を一ずつみんなに配るんです。100人。100人ってかなりの人数ですよね。労力も100人ってかなりあります。これが100なんだ。100っていう数の多さを想像させるのに、実際に一人ずつに配らさせる」
 『先の見えない階段を一段一段上るような、途方もない訓練を重ねながら、敦史さんは少しずつ学び取って行った』
 (小学校時代の勉強の様子、指文字を覚えた様子などが写る)
 (現在に戻る。廊下を歩く敦史の足)
 『敦史さんが歩くと、いつも鈴の音が聞こえる。これは、他の生徒や教師とぶつからないように、自分の存在を知らせるためだ。敦史さんは中学から寮生活を送っている。部屋には趣味の電車に関するものが飾られていた。電車から伝わる振動など、乗り心地を楽しみながら、旅行するのが好きだという。彼は自分の障害について、どう思っているのだろう』
 (寮の部屋の中。電車の模型がたくさんある)
 敦史(指文字で)「コミュニケーションとか、いろいろな問題はあるけど、でも、人間としては他の人と同じ」
 (寮の食堂で、一人で食事する敦史) 
 『敦史さんは今大きな目標に向かっている。福祉関係の勉強をするため大学進学を目指しているのだ。今まで、先天性の盲ろう者で、大学に入った人は居ない。全国で始めての挑戦だ』
 敦史「自分は障害者、特に盲ろう者のためになにか役に立つことをしたいと思っていました。生活しやすい環境作りなどに関わりたい」

 (学生服を着た敦史とお母さんが歩いている)
 『学生服に身を包んだ敦史さんが居た。この日は大学入試の受験日だ。実はこのとき敦史さんはもう後のない状況に追い込まれていた。敦史さんが大学生活を送るには、通訳と介助を同時にしてくれる、通訳・介助者というサポート役が必要だ。その費用を一定額負担してくれる大学を探していたが、相談した20校の内、協力を申し出たのは2校だけだった。そのうち1校は不合格。残すはこの日受験する大学だけだ』
 貞子「私も多分、彼自身もすごくこの経験を通して、社会ってまだまだ厳しいんだなって、受け入れが厳しいんだなっていうことを教えてもらったんだと思います」
 『試験は小論文と面接。大学側は通訳・介助者の同伴を許可した』
 (校門で見送る先生と母親「いってらっしゃーい」。校門を通訳者と二人で入る敦史。校門には「ルーテル学院大学、自己推薦入学試験」と書かれている)

 (画面が変わり、街角を白杖を持って歩く若い男性。横断歩道の前で停まり、単眼鏡、スコープを出して道の向こうを見る)
 『都内の企業に勤める早坂勇一さん31歳。一人で通勤する早坂さんだが、実は彼も盲ろう者だ。信号の色は、スコープで確認してようやく分かる。音の認識はあるが、区別はつかない。そんな早坂さんは今まで何度も危険な目に会っている』
 (救急車が通る)
 『特に緊急車両の通過するときが危ないという。早坂さんには接近する車の姿が見えない。そして、このサイレンの音も聞こえないのだ。信号に従って歩いていると、目の前をかすめるように車が通過したこともあったという。早坂さんが安全に歩くためには、本来なら介助者が必要だ。しかし、自治体が行っている介助者の派遣には、時間制限があり、しかも通勤や通学には使えない。人も予算もかかりすぎるという理由からだ』
 (東京の通訳・介助者派遣チケットが写る)
 (会社内、パソコンの前で仕事する早坂さん)
 『早坂さんはNTTデータのグループ会社に勤務し、パソコンを使って労務管理などの仕事をしている』
 (パソコンには手のひらぐらいの大きさの文字が出ている)
 『早坂さんのように、働く盲ろう者はほんのわずかだ。パソコンを使いながら、スムーズに意思の疎通が図れるよう、会社も協力している』
 (上司がパソコンに言葉を入力し、画面で読み取った早坂さんが、音声で答えるという形で会話している)
 『会社のサポートには感謝しているという早坂さんだが、通勤や仕事中にも通訳・介助者の派遣があればと望んでいる』
 早坂「仕事中でも周りの人たちは口頭で軽くしゃべったり雑談できて、その中で笑い話があったりするんですけど、私はそこが聞こえなくて分からないので、何がみんな笑っているのかなとか、そういうところはやっぱり孤独感を感じますね」

 『孤立する盲ろう者のために、支援組織では定期的に交流会を開いている。盲ろう者同士が触れ合える貴重な場だ』
 (東京盲ろう者友の会の交流会で、公園での交流の様子。早坂さんはボードの筆記通訳を受けている。他の通訳方法を使っている人たちも居る)
 『通訳・介助者が障害に合わせた方法で、サポートしている。指の上で50音を、キーボードのようにたたいて伝える指点字という方法。盲ろう者は全国で2万人以上居ると推定されている。そのうち通訳・介助者派遣制度に登録している人は、およそ900人。わずか4パーセントだ。では、他の大多数の人はどうしているのか』
 (東京盲ろう者支援センター所長)
 前田「どうしているのか分からないのが、本当に問題だと思います」
 『分からない理由。それは盲ろうという障害が法的に位置づけられていないため、行政が実態の把握を十分行っていないからだ』

 (荒川区の役所の前。二人の女性職員が出かけるところ)
 『そんな中、動き出した自治体がある。東京荒川区では全国の自治体では初めて、昨年9月から、盲ろう者の実態調査に乗り出している。だが、手紙も読めず、電話も聞こえないという盲ろう者の調査は容易ではない』
 (二人が、あるアパートの前で呼び鈴を鳴らしているが、反応がない。紙に大きな字で、メモを書いてポストに入れる)
 職員「いらっしゃらない」
 『この日職員が訪れた家には、盲ろう者のほかにも家族が居るというが、応答はなかった』
 職員「盲ろう者の殆どの人が家に閉じこもっているんですね。直接やっぱり訪問が一番。訪問しないと分からないことなので、なん回も来ます」
 前田「本当に埋もれている人はたくさん居ると思うんですね。本当に息をしているだけ、ご飯を食べているだけ、排泄をしているだけというような生活で、ずっと同じ部屋にこもっている。そういった方もいらっしゃる」
 『荒川区以外の自治体では、いまだ調査すら行っていない。情報を得られず、発信もできず、さらに行政からも手を差し伸べられない。これが、盲ろう者のおかれている現実だ』

 (国リハ近くの歩道を、かさをさし、白杖を持って歩く若い盲ろう男性。酔っ払いのように左右に揺れながら歩いている)
 『雨のなか、歩行訓練に励む盲ろうの青年がいた。川空礼将さん19歳。目と耳からの情報がないため、バランスを崩しやすくまっすぐ歩くことが難しい。川空さんは今、国のモデル事業に参加している。この事業は盲ろう者の支援のあり方を検証するため、去年10月から国が始めたもので、1年間で10人程度の盲ろう者を受け入れる予定だ。ここで訓練を重ねて、いずれは自立して働きたいという』
 (パソコンを使った訓練や、料理の訓練を受ける川空さん)
 (赤ちゃんの写真)
 『川空さんは生まれてすぐに目の病気になり、8歳のころ、それまで大切な情報獲得の機能だった聴覚も失った』
 (現在の川空さん)
 川空(手話と指文字をあらわしながら音声で)「品物の名前やものの説明を聞きたいと思ったら、そういうコミュニケーションの情報が入らなかったのがつらかったです」
 (柔道大会の会場。試合に勝つ川空。メダル授与式)
 『その後、川空さんは生きがいを見つけた。それは柔道だ。一昨年には視覚障害者ユースの世界大会に日本代表として出場し、見事銅メダルを獲得。川空さんは障害者スポーツの世界では有名選手だ。自立の訓練を受けながら、柔道の練習も続けている。センターの職員たちが練習相手だ。川空さんには大きな夢があった』
 (職員を相手に柔道の練習。大きな職員を押さえ込む川空さん)
 川空「2年後にロンドンパラリンピックに参加したいと思います」

 (敦史、お母さん、通訳者3人が歩いている)
 『12月24日。大学進学を目指す森敦史さんの、合格発表の日だ。すでに合格者の受験番号が張り出されていた。盲学校の教師も駆けつけてきた』
 (大学の校門。校内遠くに、合格者の発表掲示板が見えている。お母さんと通訳者は見るのが怖くて校門から入れない。先生に、敦史と発表を見に行ってほしいと頼んでいる。先生と敦史が校門を入り、発表を見ている。しばらくして、門のほうを向いた敦史と先生が、両手で大きな丸を出す。門の前で喜ぶ母親。大声で叫び、拍手。敦史に駆け寄り二人で抱き合う)
 『全国で初めて、先天性の盲ろう者が大学に合格した』
 貞子「こんな、寿命が10年も20年も縮むような経験、もういやだ」
 貞子「クリスマスプレゼントがきたね」
 敦史「そうそう、24日、前からクリスマスだなと思っていたら、良かった」
 『敦史さんはこの春、大学生活というまた新たな一歩を踏み出す』

 (スタジオ。男女のアナウンサー)
 女性「見事合格なさった森さんですけれども、先天性の盲ろう者の方が、大学に合格するのは初めてだと言うことで。やっぱりこの、映像の3歳の時の森さん、印象的で、泣き叫ぶわけでもなくて、じっと立っていて、手を差し伸べてくれるのを待ってるんですね」
 男性「本当に我々こういう盲ろう者の人たちの困難と言うのは分からないと言うか、理解できないですね。例えば今ですね私、目をふいで耳をふさがれたらですね、例え知っている街でも、一歩も歩けないですね。とかくですねこういうニュースの場合我々は彼らをサポートするとか、援助するっていう視点で見がちなんだけども、例えばあのVTRにあったですね、触手話とか、指点字。ああ、人間ってこういう形でもコミュニケーションできるんだって言うかね。彼らにですね、人間の潜在能力ですとか、すごさ、希望みたいなものを教えられるという面もあると思うんですね」
 女性「森さんが、電車が好きっておっしゃっていたけど、電車が好きだと写真を撮るのが好きなのかというイメージがありますけど、振動が好きだとか、乗り心地が好きなんだという感覚、私たちにはなかったですね」
 男性「なかったですね。あの、ヘレン・ケラーさんというのは、我々良く知っているんだけれども、日本にですね、2万人もの盲ろう者の人が居るっていうこと、我々知らないわけですよね。私もせっかくですね、見える目、聞こえる耳を持ってるわけですから、こういう現状についてですね、やはりしっかり見て、しっかり聞いて、現状を伝えていかなければいけないのかなと思います」
 女性「鋭く指摘されることも多いかも知れませんね」
 男性「では、今日の報道独習、この辺で」 

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